2024.12.17 社長ブログ
社長ブログ(第15回)父を偲んで
私ごとの話ではありますが、改めて私にとって最も近い人であり、私に影響を与えた人でもあるので、父を偲ぶ気持ちも含め、文章にしたいと思います。また歴史を知る点からも意味深いものになれば幸いです。
目次
- 父の生い立ち
- 父の性格
- 父への感謝
- 最後に
父の生い立ち
父は、埼玉県の小川町で生まれました。実家は生糸を生産する農家で、当時はかなりの蚕を育てていたようです。
<画像はイメージ>
昭和8年の生まれなので、子供の頃、戦争を体験し、一般国民同様、戦争に勝利することを胸に、学校に通っていたようです。父が高校同窓会の会報に投稿した文章を読むと、午後は教練という授業があり、手榴弾の投擲の訓練や体操の時間では、校庭の隅に作られた米兵の藁人形に向かって、自宅から持参した1.5mほどの樫の木の棒で、50回とか100回叩く授業もあったようです。12歳で終戦を迎え、歴史の教科書に墨を塗ったようですが、一般国民同様、すべての考えが覆され、思想は左寄りの考え方をするようになりました。
子供の頃の遊びは専ら自然の中で遊ぶことなので、よく川で泳いだ話は聞かされました。
そのようなこともあり、高校時代(埼玉県立松山高校)などは水泳部で活躍したようで、亡くなる数年前に、「もし教員になっていなかったら、何になりたかった?」と聞いたところ、「水泳の日本代表」と言っていました。少々ボケが入っていたので、真実かどうかはわかりませんが…。
<画像はイメージ>
その後、東京教育大学(現筑波大学)に進みます。専攻は哲学倫理学だったようですが、歴史、特に日本の近現代史が好きで、明治時代以降については、かなりの本が家に置いてありました。聞いた話によると、高校か大学時代に、1人で考古学部を立ち上げ、考古学研究をしていたこともあるようです。ただ一方軟式テニス部にも所属していたようで、その写真を一度見たことがあります。
教育大学に進むということは、教員を目指すということで、大学卒業後、中学校の教員になり、東京都立駒留中学校(社会科教諭)に進んだようです。その後高校の教員として東京都立京橋商業高校の日本史教諭になり、その後結婚。兄と私と子供が生まれ、東京都立羽田高校に赴任します。そこで長く過ごし、東京都立松原高校で教頭、東京都立赤坂高校で校長になり、定年を迎えます。
仕事熱心で、朝7時には家を出て、夜7時過ぎに帰宅する毎日でした。よって朝食を共にすることはまれでしたが、夜は一緒に食べることが多かった記憶があります。私の兄も議論好きで、父、兄といつも夕食を食べながら、日本の歴史や社会について議論していた記憶があり、母はいつも話題がつまらないと嘆いていました。今思えば、私自身に論理的思考が身に着いたのは、そのような家庭環境で育ったからかもしれません。
そのような父なので、あまり遊んでもらった記憶がなく、外で兄とキャッチボールをしていて、時たま顔を出してキャッチボールしてくれた時は、とてもうれしかった記憶があります。
覚えているエピソードがいくつかあります。教員時代は、歴史の教員で、水泳部顧問、生徒指導をする熱血教師のようで、一度だけ、生徒に手を挙げたことがあると言っていました。それは中学校教員時代に、生徒がクラスで飼っていた金魚を、面白おかしく遊んでいて、外に出して殺してしまった際に、我慢ならず手を挙げたと言っていました。そういう話を聞くと、真面目な教員だったのだと思います。
一方、先に書いたように、左寄りの思想だったため、学校の卒業式等で、国旗掲揚や国歌斉唱には反対し、校長の時も、国旗掲揚せず、君が代も絶対に歌うことはしなかったようです。
父の性格
父は母同様、普通の典型的日本人だと思います。結婚して、すぐ母の両親と同居していて、サザエさんのマスオさん状態だったので、性格もマスオさんのように、家ではあまり怒らない優しい性格でした。母が強い性格なので、夫婦としてみるとお互い文句を言いながらも、仲のいい夫婦だったように思います。
祖父母にとって、兄が初の男の孫ということもあり、兄がかなり可愛がれたのと対照に、私はほとんど見向きもされなかったので、私としては自由に過ごせたのは良かったですが、兄に比べるとあまりかまってもらえず、少々寂しく思ったことは事実で、父がよく勉強面で一緒にいてくれる時間が多かったように思います。父の部屋と私の部屋の境には扉がなく隣同士ということもあり、父の仕事中でも、よく文章の添削をしてもらった記憶があります。日本語の句読点や表現は、小学生には少々難しいので、よくチェックしてもらい、中学生ぐらいまでは添削してもらっていた記憶があります。
私も兄も鉄棒の逆上がりが苦手で、兄が中学か高校生の時に、体育で鉄棒の連続逆上がりの試験があると悩んでいたときに、家にあった鉄棒で、父がそれをさっとやって見せたのは恰好よかったのを覚えています。
また恰好いいで思い出しましたが、私が5歳の頃、家族で伊豆多賀に海水浴に行った際、沖にある高飛び込み台から、頭からジャンプして飛び込んだ姿は子供心に憧れた記憶が残っています。
<画像はイメージ>
父への感謝
第10回のブログでも書いたように、私は好き勝手な生き方をしてきました。
今思えば、これは私の生まれ持った性格もありますが、祖父母からはあまり気に掛けられず、父が何も干渉せず、自由奔放な環境を作ってくれたからだと思います。もう少し言葉を言い換えると、自由奔放な環境を作ったのではなく、そもそも父はあまり他の人に興味なく、自分がどう生きるかのみに興味があったように思います。それで何で教員に?と思いますが、昔の教員は先生と呼ばれる格上の職業でしたし、他の人に興味はないといえ、偉人や有名人のプロフィールには興味ある人だったので、やはり社会で評価された人に対する関心が高かったと思いますし、自分も偉くなるという功名心は高かったように思います。
その性格だと、子供を有名大学に行かせたいとかあるのかもしれませんが、そこはあまり言葉にしなかったので、それは私にとっても救いでした。
最後に
今年(2024年)に、母、父と両親が他界し、死というものを改めて意識させられる1年でした。私自身も哲学科出身で、「生命の意味」という卒論を書いたこともあり、生と死ということにはとても意識が高く、死という存在認識があるから、人間の生をより良く生きようとする、というのは、卒論にも書きましたが、今でもそのように考えております。
ただ実際に最も近い人の死を、この歳で目の当たりにすると、生は本当に有限で、どのように死を迎えるか、真剣に考えるようになります。母も父も、彼らの性格や住んだ環境の中では、よりよく生きた人生だったと思います。
動乱の世になりそうな2025年ではありますが、世界や社会への不満が高まろうが、死を目の当たりにすると、人間とは何か、生きるとは何かを改めて考えさせられます。動物で唯一言葉を操り、言葉を操るから認識し、意味を考え、未来を考えられる、そんな人間を改めて、学ぶきっかけになる出来事でした。
母も含め、父がいなければ、今の私はありません。今私がこうして、幸せに生きていられるのも、先に書いたように、そのような環境で私を育て、育んでくれたからだと思います。昔を振り返ると、懐かしく、涙が目に浮かびますが、残りの人生を悔いなく生きようと思うのも事実です。両親に感謝し、今回のブログを終えたいと思います。本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。合掌!
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