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2024.05.02 社長ブログ

社長ブログ(第10回)「母を偲んで」

母が先日急逝しました。91歳でした。私ごとの話ではありますが、私にとって最も近い人であり、少なからず、私に影響を与えた人でもあるので、母を偲ぶ気持ちも含め、文章にしたいと思います。また歴史を知る点からも意味深いものになれば幸いです。

※このコンテンツはAIで作成しております

目次

  • 母の生い立ち
  • 母の性格
  • 母の反対することをやってきて今がある人生
  • 母の愛

母の生い立ち

母は、祖父の仕事の関係で、小学校時代は北京で生活をしていました。祖父は旧制東京外国語学校(現在の東京外国語大学)を出て、逓信省(現在の総務省)で働いていたようですが、満州勤務の募集が出て、手を挙げて新京(現在の長春)に行き、その数年後、北京に移ったと聞いています。少しでも北京への転勤が遅れていたら、満州からシベリア抑留と過酷な人生に繋がっていたかもしれません。

北京での生活はかなり贅沢なもので、メイドさんが4人ほどいたと話していましたが、かなり大きい家に暮らして、羽振りが良かったようです。現在も、駐在員はかなりの手当てがつくので、それに近いものと考えられますが、戦争中ということもあり、危険手当を含め、いろいろな手当がついたのかもしれません。ただ北京で終戦を迎えるのですが、戦後引き上げる際には、金銭は没収され、すべての財産を捨てて、一文無しで帰国したと言っていました。

最初、祖父が北京にいて、あとから母や祖母、母の妹(叔母)が船と列車を乗り継いで韓国から北京に入ったようです。

母は北京の日本人学校に通学していたとのことで、1期生とか2期生とか言っていた記憶があります。亡くなる十年前ぐらいまで、同窓会にも参加していましたので、それなりの数の生徒がいたようです。

中国での生活は楽しかったようで、その名残か、私が小さい頃、よく家でも「ローピン」を作って、食べた記憶があります。ローピンとは烙餅(ラオピン、ローピン)と書き、北京など華北地域の一部で広く食されている中国のパンケーキみたいなもので、ローピンの中に、もやしなどの野菜炒めを入れて食べることが多かったようです。家では、母が愛知県出身ということもあり、よく赤みそを入れて食べたことが懐かしい思い出です。

※このコンテンツはAIで作成しております

年を取っても「ドゥーシャオチェン」といった片言の中国語を覚えていたので、よく北京の屋台でローピンとかを買っていたようでした。ちなみにドゥーシャオチェンは、「多少錢」と書き、「いくら?」という中国語になります。

私が20代の頃、両親と北京に旅行に行き、住んでいた場所を探しましたが、既にその形跡はなく、大きいホテルになっていたのを覚えています。またその旅行で中国人に話しかけられて、母が話そうとしていましたが、ほとんど言葉が出ないのを考えると、そこまで中国語を知っていた訳ではなさそうです。私も上海で6年間働いていたので、中国語や2010年代の中国生活については、どこかでまた文章にしたいと思います。

母の性格

母は別に変わった性格ではなく、普通の典型的日本人だと思います。結婚する前は、手が器用だったこともあり、洋裁を仕事にしていて、結婚後も、近所の人たちに洋裁を教えていたのを覚えています。教育面では、勉強しろ、と言われたことはあまりなかったですが、「いい高校、いい大学、いい会社」みたいな考え方は多少ありましたので、我々の時代として考えると、世間一般的な価値観の持ち主だったと思います。

体は小さく、華奢だったこともあり、自然分娩で子供を産めず、全員帝王切開で産む形になりました。私には兄がいるのですが、実はその上に兄がいました。大学病院の医師に帝王切開で取り上げられたのですが、数時間後に命を落としています。私はと言うと、本当は生まれてこなかった人間でした。小さい頃、兄から聞いた話ですが、母の華奢な体での帝王切開は、昔はそれほど医療も発達していなかったこともあり、かなりの血がなくなることもあったようで、私を産む際は、自分の命にも影響を与えかねない状況で、祖父は、私を下ろせと言ったような話があったそうです。

これこそ運ですね。人生は運がとても重要ですが、まさにこの世に産まれる前から運による私の人生が始まった感じです。

両親的には、一人っ子よりは兄弟がいた方がいいということで、命を懸けて私を産んでくれました。祖父が昔の考えの持ち主で、先に産まれた祖父の孫(私の従姉妹)が女性だったことで、兄は初の男の孫ということもあり、祖父からも母からも兄は溺愛され、過保護に育てられました。

その反動かわかりませんが、私はどちらかと言うとほったらかしで育ったため、好きなことをやりながら生活できたのは幸せだったと思います。

そのようなこともあり、あまり渦中の人にならず、遠くから状況を眺められるスキルが身についたように思います。よって、チームスポーツ(サッカーやラグビーなど)をやる際、鳥の目ではありませんが、俯瞰的に見ようとするスキルは兼ねそなえられているように思い、経営にも役立っていると思います。

母の反対することをやってきて今がある人生

先に書いたように、私は自由奔放に育ったこともあり、自分がやりたいことを即実行する性格でした。

例えば中学校3年の卒業式近くで、普段の昼休みに、「卒業後、北海道で流氷見たいな」と私が話していたら、友人が「オレも行きたい。一緒に行こうよ」と話してきたこともあり、軽い気持ちで北海道に行くことになりました。卒業式が3月10日頃で、高校が始まるのは、4月5日頃でしたので、その間の約20日間で北海道を横断しました。

行くにあたって、両親に伝えたところ、母は猛反発。自分は行ったこともない癖に、「札幌以外は熊が出る」とか、「今行かなくてもいいでしょ」と過保護な言葉が頻繁に出てきました。母はかなり慎重な性格だったのだと思います。

ただそれを押し切って、友人と北海道に、鈍行列車、青函連絡船を乗り継ぎ、函館から網走までの横断と、約半月間行ってきましたが、とてもいい経験になりました。これを機に、私の旅人生へと続いていきますが、それについてはまた改めて書きたいと思います。

他にも、教師の仕事の後、外国に行く際も、20代前半でしたが、「こんなに早く海外行くことはない」「もっと大人になってから行けばいいのに」という声を遮って、カナダに行きましたが、本当に素晴らしい経験を積むことができました。カナダワーキングホリデーの5期生ぐらいですが、私と同じ年代の数多くの若者と会えて、本当にいい思い出がいっぱいです。

ということで、母が遮ってきたことを、すべてやったこともあり、何も悔いなく、楽しい思い出がいっぱいあります。それに反して、兄は、過保護な環境が長かったせいか、自分の好きなことに対して行動する力が私ほどはないように思います。

母の愛

とはいえ、母から何も教わっていないかというと、そうではなく、やはり愛は、とても多くいただいたと思います。これは母と子という自然の摂理だからかもしれませんが、母の無償の愛には、本当に感謝しています。

世の中には、この愛が足りないせいで、居場所を求めて彷徨う人もいたりします。そういう意味では、母の愛は感じていますし、母の優しさも十分いただきました。上記のように、私がやりたいことを遮るのも心配だからであり、可愛いからだと思います。

可愛い子には旅をさせろ、とはいいますが、なかなかそれを実行できる親御さんは多くありません。私の子供たちは、高校から寮に入ったり、交換留学で海外に行ったりしていますが、私のように海外を多く経験していても、口には出しませんが行かせる際は結構心配したものです。

母も心配だからこそ反対したと思いますが、その裏にある愛はいつも感じていましたし、日本から離れたことで、より母の愛を感じました。わが子も親の愛を感じてくれていると思います。

先にも書いたように、実際は3男ということで、母との付き合いは、約50年ちょっとになりますが、本当に私を産んでくれたことに感謝していますし、一緒に生活ができて、とても幸せでした。一緒にいると、少々おせっかいなので、耳が痛くなる時もありましたが、愛のわかる人間になれたのは、母のお陰です。本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。合掌!

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